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このBBQの時の大事な出会いがもう一つありました。

それは、この大槌町の消防団長を勤める煙山さん。


BBQも落ち着いてきた頃に、巡回だったのか、車でちょっとだけ立ち寄られたのです。
(当時は消防団長さんとは知りませんでした。)


「どうぞ、どうぞ、食べて行ってくださ~い!」


「ああ、お昼食べたからいいよ~。今まだいくころもあるし。」

と、軽く辞退されたけど、

「いや、でも別腹でいけるでしょ~!どうぞ、どうぞ!」と軽くしつこくしてみた。w


すると、ニコリとして「じゃぁ、せっかくだから一個もらおうか~」と焼きおにぎりを手に取ってくれた。


ちょっと無理矢理だったけど、うれしかった。


「まだいるんで、是非また戻ってきてくださいね~!」


そうやって出て行くのを見送ったのですが、本当に戻ってくるとは思わなかった。


しかし、なんと、本当に戻ってきてくれたのでしたっ!

「わ~!本当に戻ってきてくれたんですね~!うれしい~!


煙山さんは、

昔の大槌を見せてあげるよ、、と何やら車からファイルをとりだしてきてくれた。


2日目:BBQ - 074


正直、ネガのような白黒の小さい写真だったので、そんなに町並みがわかるとはいえず、
ただ、「へぇ~」っとのぞいた。



2日目:BBQ - 075


でも、

ここに生まれ育った人にとっては、

もとの大槌町がどんなだったか知ってる人にとっては、

こんな写真でも、
ああ、そうそうここがこんな風で、あんなんだったんだよなぁ~って、自分の記憶を鮮明に引き出すツールになるんだろうと思った。


2日目:BBQ - 073


これは煙山さんの若い頃の写真らしい。

すごっ、セスナ?


ああ、そうか、
セスナにのって、上空からこの大槌町を撮ったということか!


その当時、セスナで上空から大槌を見るというのはすごいことだったと思います。

そんな機会にあずかり、
高揚した気持ちで爽快に大槌の町を見下ろした時、、
まさかそれから何十年か後に、その町が消えてしまうなんて思いもよらなかったでしょう。


何十年か前にそんな特別な経験をして、

そして、今、こうやって津波から生還し、この写真も津波から守る事ができた煙山さん。

煙山さんは今、

自分の身に起こったこの一連の出来事を奇妙に思っているかもしれない。



     町の復興への使命感。


現在、、もしくはこれから、そんなことを強く感じていくのかもしれないと思った。





「煙山さん、イケメンですね~!若い頃は絶対モテモテでしたよね~

被災者、被災者と意識しすぎずに、明るく振る舞いたかった。
だまされた風でも、ちょっとでも笑ってもらえればいいなと思った。

煙山さんもこんなノリについてきてくれて、笑いながら軽快に話をしてくれた。


「あなたはここで何をしてるんだ?」


「カイロの先生と一緒にきてるんで避難所を回ってるのですが、
話を聞いてもらいたい人もいると聞いたので、お話係しています。」といった。


でも、じつは、「ふうん?もっとまともなことしたら?」って顔されちゃうかな?って内心ちょっとドキドキしていた。


でも、

「そうか~。それはいいねぇ。

今回の津波は、本当にあと何秒、あと何メートル、っていうところで運命をわけたんだよ。

今生き残ってる人達は、みんな一人一人の九死に一生を得たドラマがあるんだよ~。

そしてみんなそれを話したがっていて、聞いてもらいたがっている。

俺も、いろんな場にいくけど、
みんなわーっと、うちはこんなことがあった、うちはどうだった~って話しだすからね~。

是非、沢山の人のそういう話を聞いてやって下さい。」


  そういわれてほっとした。


出発前にいろいろと考えて決めたあたしの被災地での活動だったのだけど、
この煙山さんの言葉でそう自分が決めた事をちゃんと肯定できた気がした。



震災と津波の話題になると、普通にただ明るく接する、、とはいかなくなってきた。


岩手の被災地にきてまだ2日目。

打ち解けてきてからが、逆に少しとまどう。

何を言葉に出して、何を慎むべきか、、、表向きはさっきのテンションを保ちつつも、内心緊張しはじめていた。


被災者に何を聞いたらいけなくて、どんな言葉がタブー、そういわれていたことも少し頭をよぎる。

しばらくそんなことを頭でぐるぐるしたけど、
結局、そんなことぐるぐる考えていたら、ぎこちない会話になって、そっちのほうが逆に不快にさせちゃいそうだと改めて思い、

「ただ自分の素直な心で接しよう!」と思った。



「煙山さんは、震災の時どんなドラマがあったんですか?」

ゆっくり聞いてみた。


「俺は、震災があったとき、家にいたんだけど、すぐ海岸に向かったんだ。

すると、とんでもないことになっていたから、これはヤバいと、
すぐ本部に連絡せねばと思ったけど、無線が動かなくてねー。
(津波で基地局が破損して使用不能になったようです)

だから、なんとか早く戻って報告、避難させなきゃと思って車に飛び乗ったんだけど、

後ろからすぐ波が追いかけてきて、、なんとかなんとかと猛スピードで走ったんだけど車も詰まってて・・。

そんですぐ、後ろの車は波に飲まれていったんだ。

俺の車も後輪が波に乗って回転して、もうダメかな、、と思ったけどなんとかなんとか助かったんだ~。

本当に、あと1メートル、数十センチ、、って話だったんだよ。」


壮絶な話を聞かせてもらった。

まさに煙山さんが壮絶なドラマを体験していたのだ。




ちょうど、私が東京を出る前日、岩手出身の友人淳さんから久々に突然電話がきた。

岩手の被災地にいくんだと話をしたら
ちょうど、彼の元従業員は大槌町出身で、そして今回被災したんだという話を聞いた。
(→大槌町との不思議な縁の記事はコチラ

その淳さんの元従業員は佐々木さんという。

彼が現在寝泊まりしているのは、津波で亡くなった佐々木さんの友人宅。
その友人とはまさに消防団員で、津波がきたらと水門を閉めにいってそのまま帰らぬ人となってしまったとのことだ。
その佐々木さんの友人。
名前はきいていなかったけど、同じ大槌町の消防団員ならば同じ仲間には違いない、とそんな話を煙山さんにした。


「そうかぁ、すごい縁だね~。誰だろうなぁ。

水門ね~。そう、それでみんなやられっちゃったんだよなぁ。
水門は、手動でなくて、遠隔操作ができるようだとよかったんだろうなぁ。

(昭和35年のチリ津波を経験した大槌町は非常時に消防団が水門を閉めることになっているそうです。
煙山さんの安渡地区では団員14人が出動。18分後には12の水門すべてを閉じたが、7人が死亡、1人が行方不明になりました。)

「でもね、本当にみんなよくやったんだよ。」


サイレンがならなくて、最後まで半鐘を鳴らして亡くなった消防団の方の話をしてくれた。この話は聞いた事あったけど、これもここ大槌町の話だったとこの時に知りました。(→その新聞記事


しかし、


「でも、新聞で「大槌町誤○○」ってでかでかと書かれちゃったのはまいったよ。」


スイマセン、この○○がなんと言っていたか忘れちゃいました・・ようするに、この非常時に人が水門を閉めにいかせる大槌町消防団の体制(無線がつかえなかったり、サイレンがならなかったことなどの防災システムなども?)などをネガティブに書いた記事だったんだと思います。


「本当にあの言葉だけは書いてほしくなかったなぁ。。」


煙山さんは変わらぬやさしい顔をしていたけど、かなり残念そうにいっていた。


「自分の身を犠牲にしてまでも、任務を遂行して町を守ろうとした団員さんの勇敢さと正義感、、
それをまるで侮辱するような言葉ですねぇ。。。」


そうもらすと、


「”侮辱”!・・そうなんだよ。それなんだよ!」と、強く反応した。


その悔しい気持ちにうまく当てはまる言葉が今みあたったというような風だった。


それは、
それだけ団員さんのことを強く「誇り」に思っているからであり、

そして、生き残った団員の誇りの気持ちを汚して欲しくないという想いがあるからだろう。
(自分たちがとった行動が間違っていたとすれば、仲間を失い、生き残った団員はやりきれない想いになってしまう)


システムどうの話じゃない。「生き方」なんですよね。


うちの実家の村にも消防団があって、兄が団員である。

都会の人はなんとなく、消防職員と間違えてるかもしれないけど、
田舎の消防団とは、いわゆる、自分たちの村を守る有志の集まりで、
多少の慰労金はもらえても、お給料をもらってるような「仕事」ではないのだ。


彼らにそうさせたのは、一人一人の強くて純粋な「使命感」だったのだろうと思う。

うちの兄もきっと同じことをすると思う。


もちろん生きて帰ってきてほしかった。

もっと、いい防災設備、対策があれば命を落とさずにすんだのかもしれないけど、
でも、それはただ今後の対策・課題というだけで、責めるべきではないと思う。


            「水門はすべて閉まっていた。」

       消防団員さんは、帰らぬ人となってもみんなその使命を全うした。


          誰も何も責める事なく、ただ彼らを讃えたい。




今度は彼の家族の事が気になった。

「ご家族は、、どうでしたか?」・・・と聞いてみた。


明るく気丈に見えた煙山さん。

どこかで家族は藤原さん一家のように無事なんだろうと思っていた。

「おかげさまで・・、」という言葉がかえってくると思っていた。


      しかし、


「うちはみんなやられっちまったんだ。
家、母親、妻、息子、、、、みんな流されっちまった。

ちゃんと避難させてから俺も家を出ればよかったんだけどなぁ。

それだけが本当に悔やんでも悔やみきれない。。

家族を守れなかった事、それは本当に悔やまれるんだなぁ。」



        ・・・・えっ?!





この笑顔からは信じられなかった。

この震災と津波で家と家族丸ごと失っていたのだ。


さっきの消防団員を失った話も思うと、、、・・・たまらなかった。


家もなく、

人生をこれからどうしようかと身をよせあったり、悲しみを共有する家族もいないんだ。



    ああ、彼は、これからどうやって、何を支えに生きていけるんだろう?



流された家、家族の遺体を確認した時の煙山さんの状況を想像すると

胸が震えてきて涙がこみあげてきた。


あたしが泣くとこじゃないだろ~と、必死に涙を止めようかとも思ったけど、


でも、ただ、「素直な自分の心のまま」溢れ出る涙をそのままに話を続けた。


    「煙山さんは生かされたんでしょうね」


そういうと、


「うん、そうなんだろうねぇ~。」


静かに、だけど強い言葉だった。
目もきらっとしていた。


そうやって、生き残った事を肯定していたこと、
生きる希望を持っている事を感じられてうれしく思った。



最後は、両手で煙山さんの手を握って


      「これからまだまだ大変ですが、がんばって下さいね。」


             「心から応援しています。」


そういって別れた。


被災者に「がんばって」って言っちゃいけないなんてもよく聞くけど、でも、やっぱり心から溢れる言葉は「がんばって」だったんです。




数日後、
東京に帰る車の中で、真希さんが藤原さんと電話していた。

その時と、2度目に訪れた時の藤原さんの話。


まず驚いた事は、


彼は一団員さんかと思っていたら、消防団長さんだったということ~!


そして、、


      煙山さんはあの日、震災以来始めて笑ったということ!!


             




その後、煙山さんが石井さん宅を訪れた時に、私と話をしたことを本当に喜んでくれていた、と。

「涙を流してもらい、最後に「がんばって」と握手をしたのが本当にうれしかった」、、と。


「また、彼女にに会いたい、次に来たら絶対に呼んでくれ!」と何度も言ってくれていた、、と。



                   
                 



とまどいながらも、「自分の心に素直に」接した事でこうして喜んでもらえたこと。

少しでも心の支えになれたこと。



本当に本当にうれしく思いました。


2日目:BBQ - 077
消防団の煙山さんと田鎖さん。



帰ってしばらくしてから、煙山さんの記事をネットで見つけました。
記事としてあらためて読んで、また涙が出ました。



上空からみた大槌の町並みの記憶を思い出して、復興に活躍してほしい。


きっとそれが、煙山さんが生かされた使命だと信じています。


そして、わたしは引き続き彼を応援して行きたい。





以下、リンクと抜粋です。

記事のサイト/共同通信社・ニュース

以下抜粋。


■東日本大震災(ニュース特集)■

◎岩手・大槌町消防団長の祈り 家族3人失い部下も16人◎


 岩手県の大槌町消防団の煙山佳成団長(72)は、出動のため義母と妻子3人を津波の犠牲にしてしまったと自らを責め続けてきた。防潮堤の水門を閉め、避難誘導をして死亡・行方不明になった部下の団員や協力隊員は少なくとも16人いる。11日。震災後初めて警戒態勢を解くよう指示し、黙とうをささげた。

 地震直後、商店を兼ねた家で妻昌子さん(73)が消防団のはんてんを準備し、いつものように出動を見送った。「早く帰ってきてね」

 自転車で消防会館に向かい、仲間が乗る消防車が通り掛かった。同乗した。水門が閉まっているのを確認し、避難を呼び掛けながら、堤防に上がった。津波が間もなく襲ってくると気付いた。車で一気に坂道を上った。追い掛けてきた水で車は後輪が浮かび、90度横に回転。何とか流されずに持ちこたえたが、道路が寸断され孤立した。寒空の下、流れ着いたイカの加工品やサンマをたき火で焼いて食べた。

 翌日、廃虚になった町を歩いて、大槌町の災害対策本部になった公民館にたどり着いた。以来、町職員と公民館で寝泊まりし、消防団を指揮している。

 出動のため家を出た場面が今も頭をよぎる。

 長男隆之さん(40)は寝たきりの義母タマさん(92)に流動食を食べさせていた。「後を頼むぞ」と言い残したのが最後になった。

 避難場所の小学校までタマさんを背負うと10分はかかる。ばあちゃん思いで、流動食の栄養まで気遣う息子が、懸命に逃げた姿が目に浮かんだ。途中で津波に追いつかれたのだろうか。

 出動で気がせいていて「すぐ逃げろ」と言わなかった。悔しい。怖がりだった妻。俺がいなくてさびしかっただろう。

 3人の遺体は見つかった。それだけでもありがたいことなんだと自分に言い聞かせている。

(2011年4月11日)





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