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9年ぶりのシドニー。

思い出の場所をひたすら歩き回りました。
その場所を一歩一歩踏む事に、にいろんな思い出がよみがえってくる。
思い出だけでなく当時の自分の気持ちとか
何を考えていたかとか、
そんなことが溢れ出してきました。

おもしろいことに、
日本にいるときはその時代がずっと昔のことのようだったけど、
その場にいくと、つい昨日のことのように思えてきます。


2000年、私はワーキングホリデーでオーストラリアで1年間過ごしてました。
ワーキングホリデーを思い立ったのは学生の時。
(ちょっと語っちゃっていいですか?

私は今まで、なんにも夢も目標もなかったんです。
なんにも取り柄もないし、「これだ」と熱くなれるものがない。
だから、将来のビジョンが定まっていてそのスキルアップに燃えてる人、
可能性は薄くても、音楽や絵など、夢に向かってる人がうらやましくて仕方がなかったんです。

今思えば、たかがワーホリですが、初めて「これはやりたい!!」
と、熱く思えてうれしくてたまりませんでした。

しかし、ちゃんと日本で社会経験をつんでから海外にでようとまずは就職。
ワーホリを価値あるものにするために就職したようなもの。

でも、厳しい社会人経験を味わううちに心は曇り、
ワーホリなんてお気楽な学生ゆえの夢だったと、
平凡な人生こそすばらしいと、あきらめかけました。

そんなとき、
突然の訃報。
大学の先輩が突然事故で亡くなってしまったのです。
私の大学の卒業式に来てくれて、お互いの夢を熱く語りました。
「次に会うときにはお互い夢に近づいてるといいな!」と先輩は去っていきましたが
そのほんの3ヶ月後、次に会ったときはあまりにも残酷な姿でした。

「もう、この人は、どんな鬼の努力や苦労とひきかえにしても夢は叶わないんだ。」
命を失って可能性のすべてを失ってしまった先輩を思うと、
生きているだけで可能性の宝庫なのに、自ら可能性をすてることの愚かさ、
先輩に対して申し訳ない気持ちになりました。

その後は、まずは今の仕事を好きになって結果だそうと。
負け犬のままで去ってはは次の夢なんてかないっこない。
そしてある程度成績が出せたときに退職。
そして本格的にその夢への旅費を稼ごうと体を何度かこわすほど昼夜働きました。
「欲しがりません勝つまでは~!」と時代錯誤につぶやきながら、
いろんな欲を絶って守銭奴のごとくの節約生活。
でも、夢半ばに亡くなった先輩を思うと、
「命あるだけありがたい!こんなことぐらい~」と、全く苦しさは感じませんでした。
先輩の生のエネルギーはまちがいなくもらったと思ってます。

海外にいくまでに英語をしゃべれるようになって、限られた海外での時間を有効にすごそうと、
英語も独学で勉強したり、日本にいながら外国人と一緒に住んだり。

全てのエネルギー、時間がワーホリをとことん楽しみ尽くすことに費やされていました。


そんなこんなで結構短集中でお金貯めれたのですが、

そういえば、
出発間際に壮行会をしてくれた友人が

みんなを代表して聞くが、、、という感じで

けっこう真剣なまなざしで
言葉低めに、、言われた一言。

「ミキ、この際正直にいってくれ。」

???

 
   「おまえ、体売っただろ。」


      


そうやってじばらくじっと見守られてきたのかぁあたし!!
あまりにも猪突猛進してたので
聞くに聞けなかったんでしょうね~。



あ、
売ってませんよ~!!(笑)


就職難と騒がれていた当時、会社を辞めて海外に行くことはなかなか理解してもらえなく、
「帰ってきたら仕事も結婚も無理だ」とか友人に批判されたり
「何のために大学までいかせたのよ」と母親に泣かれたり
そんなこんながいろいろあって
本当にいろんな想いをしょって出国しました。


そして
念願の海外生活スタート!
シドニーのボンダイビーチというところから始まりました!

まあ、日本人の典型的なスタートである
「語学学校に行って、ホームステイだー!!」と意気込んでいたのですが、
学校見学に何カ所もいったのですが、どこもイメージと違う。
韓国人、中国人、日本人ばっかりで、休憩時間にはお互いの言葉で話してる。

ホームステイ先を探すにも
ちょうどシドニーオリンピックもあって宿という宿が飽和状態。
「ホームステイすらいいところはすべて埋まっててないよ」、、とホームステイも叶わず。

おまけに、
青い空、青い海のオーストラリアをイメージしてきたのに、
ちょうど冬の時期で空はグレー、海もグレー。そんでもってさっさと日は落ちる。
オーストラリアの冬はジャケットいらんというので素直に鵜呑みにした私。

寒え死にそうでした。。。

毎日外人に囲まれてあくせくしながらがんばる自分を想像してたけど、
人に紹介されたとりあえずの宿の学生寮(「ボンダイロッジ」)は
毎日宿の日本人に囲まれ日本語ざんまいの毎日。

かなり意気込んでいただけに、
すべて、想像外で、思い通りに事がすすまなかったことに
かなり凹みまくってました

しかし、
あれやこれやとずっっどーーーーんと思い悩んでいるうちに、

「もう、オーストラリアにいるってだけで、ビックスクールじゃん!
それを生かすも殺すもただ自分次第ではないのか」

「ホームステイなんかして、ホストファミリーがはずれるリスク背負ったりするより
ここですでに私たちよりも英語がしゃべれてるヨーロッパ人、南米人と交流していた方が若者同士話も合うし、
よっぽど会話のチャンスも増えて、楽しく上達するのではないか~!」

と。


灯台本暗し。

気がついたら、自分はとってもラッキーかつベストな状況にいたことに気がつきました。
(こじつけました 笑)
「語学学校に&ホームステイ」
英語をしゃべる手段、こんな型にはまる必要はないんですよね~。

「海外に住めばしゃべれるようになる!」
そう思って海外にきて、語学学校行ってホームステイしても
英語をろくにしゃべれないまま帰って行く日本人を何人にも会いました。

他力本願はいけません。
欲しいものは自分で手に入れなければ!!

何をするか、どこにいるかでなくて全部自分次第!


得意の開き直りの始まりでした


よく、そこの住人たちとボンダイホテルというバーに繰り出していたのですが、
シャイな人も、バーに行くとお酒がはいって良くしゃべるようになる。
自分もさらに間違った英語とか、恥をすててしゃべれる。

そんなわけで、
私の学校はバーだと
学費のかわりに飲み代として費やされていったのです~


まあ、そんなわけで、
わたしの英語はバーイングリッシュを脱却できないのですが、
当時は会話ができることが目的だったのでそれは効果てきめん

いまだに交流ある友達もできて
外人の親友もできて
今思えば学生時代よりもわたしの青春時代はそこにありました。


思わず、がっつり語ってしまいましたが
それが私の9年前のシドニー時代。



そんなわけで、

思い出のボンダイビーチに向かう。


ボンダイビーチは前よりも洗練されたような気がした。
海もきれいで、すごく気がよくて、気持ちよかった。
「本当にいいところに住んでいたんだなぁ」としみじみ。

そして、一番のワクワクのボンダイロッジに行ってみた。
どんななんだろう、
どんなになってんだろう!!
(さぁ、これを読んでるボンダイロッジの卒業生!ドキドキでしょ~!!)



あ、、、

あれっ?!


YHA(ユースホステル)になっていました~!!

P1000371.jpg

外装もピンクだったのに、黄色になってるし、
中もかなり改装されていました。
(当時より、かなりきれい!)

P1000370.jpg


しかし、よく座っていたレセプションの前のソファーがほぼ同じ場所に同じような形なのがあって

P1000369.jpg


よくみんなで戯れていた食堂も当時のままの感じであったのは
すごくうれしくて
懐かしくて
なんか感動しちゃいました。
(以下、ボンダイロッジ卒業生のために気になる写真公開です。↓)

P1000368.jpg

P1000375.jpg

【レセプションから部屋に向かう階段。なつかしいよね】

P1000376.jpg
【レセプション:当時よりかなりオープンになって垢抜けてびっくり!】

P1000372.jpg
【ボンダイロッジの前のみんな国に電話してた電話ボックス。
ここで初日にクレジットカード盗まれてえらい目にあいました~。
この電話ボックスの前にもかわいいカフェができてたよ♪】


そして、
わたしの学校(BAR!笑)ボンダイホテル~!

P1000358.jpg




そんな
思い出の場所をたどりながら
思い出にひたっていたら、

忘れていた自分を体で思い出した気がしました。

いろんな想い、たくさんの想いををしょってきて、
それを少しずつばらしていって、ほぐしていた9年前のヤマダミキ。
自分らしい生き方の糸口を見つけ、少しづつたぐりよせていた9年前のヤマダミキ。
先輩の死があったことでプライドも恥もなく、
がむしゃらに一分、一秒、ワンチャンス、全てを大事に全力で走っていた9年前のヤマダミキ。
生きてるということは可能性があることだと、小さな可能性も信じられていた9年前のヤマダミキ。


オーストラリアにきて3ヶ月後、
私はシドニーを去って、一人、オーストラリア一周の旅に出た。
その初日、
「This is the place where I have to be(ここが私のいるべき場所だ!)」という言葉が突然あふれでてきた。
しかも、なぜか英語であふれてきたことを思い出す。
そのときはなんでそんな言葉がでてきたか理由はわからなかった。


今思うと、
オーストラリアに来るまで
一般的概念や生き方の枠からはずれた私の考えが否定されるとが多かったんです。
もちろん負けずに反論したりするのですが
でも
B型っぽいって言われる私はやっぱりA型で
やっぱりそういわれるとどこかで自分で自分を枠にいれようと、
いつのまにか自分で自分自身をも抑圧していたんでしょうね~。


それが、
オーストラリアの広大な大地で、
地球の大きさを体で感じて

ちっぽけな人間が勝手に決めつける枠なんて本当に小さいものなんだと気づき、

自分は自分でいいんだと

自分自身が解き放たれていった瞬間だったのだろうと思いました。



思い出の場所を踏む度に
当時の気持ちをひとつづつ拾い上げてるような感じがしました。

そして、
そういう感覚を知ってたつもりだったけど、
忘れちゃっていたなぁと、思いました。


自分は自分らしく生きていいんだ。
そして、どうせやるならホント全力で!

一瞬、一瞬を大事にしよう。

可能性は自分で作り出すもの!
そして、可能性を信じて、夢は絶対に叶えよう!





チキュウヒトマワリ



パワフルに加速されました
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